悲しみの貯蓄。

母は独居していた。
兄も私も、それぞれに自宅を持ち、
母と一緒に住むという選択肢もあったが、
母は父が逝った後も、一人で住みたいと言った。

病気がわかってからも、長い間独居を続けてもらい、
後半はヘルパーさんに入ってもらったりしていたが、
去年の十月に実姉をなくしてからすっかり落ち込んでしまった母は、
一人暮らしが出来なくなってしまった。

十月後半から私たちが実家に住まい、それから約半年。
母の人生の最後を一緒に過ごせることになったのだが・・・

死を待つばかりの母の顔を毎日見ながら暮らすということは・・・

妙な言い方だけど、もし、離れて暮らしていたら、
それはそれでとてつもなく心配でたまらなかっただろう。
けれども、四六時中心配していわけではないだろう。
一方、いつも側にいると、心配は薄らぐ。
そこにある心配は、もはや手の出しようのないもの。
が、死を迎えさせるために世話をし続けるということは、
同時に、悲しみも蓄積していく。
毎日毎日悲しみと対峙しながら、
それでも一生懸命母にしてやれることを続けて、
やがて命を全うさせるためにという、
やるせない終末に向かって一緒に生きていく悲しみ。

この蓄積された悲しみは、
その時が来たら、いったいどうなってしまうのか、
今から心配。