遺稿。

母が、「最後の挨拶に使って下さい」と書き残した手紙。
喪主である兄が、喪主挨拶時に読み上げました。

この町のみなさん、ありがとうございました。
私は、この土地に産まれ、そして静かに散って行ける事を誇りに思っています。
波あり谷あり、涙あり笑いあり、いろいろな人生ではありましたが、
やさしい夫に出会い、とても良い子供を授かり、家族共、思い出はその時々にたくさんあり幸せいっぱいでした。
そして今、この地で最後を送れた事は、私にとって、これ以上の幸せはないと、皆様に感謝申し上げます。
私をこの世に送り出してくれた母親に感謝を、お世話になった方々にありがとうと言いたいです。
子供達家族が幸せに感謝と、ありがとうの心を忘れず日々を過ごしてくれる事に私は喜びを感じます。
この町が増々発展し、住み良い町として成長されり事を心よりお祈りし致します。
感謝と、ありがとうの言葉を残して行きます。私の気持ちです…
皆様長い間本当にありがとうございました。感謝申し上げます。

再生。

桜の花が散り、
可愛いサクランボの実がつき始めた頃、
母は静かにこの世を去った。
約2年にわたって肺癌と闘い、
その闘いにピリオドを打ったわけですが、
私は母と共に病と闘い、特に最後の半年間は、
母に寄り添ってきたつもりではあったが、
今思い起こしてみれば、
母の辛さや痛みの、十分の一も理解していなかったように思う。

看護は、いくらやっても後悔が残るもんだよと、
多くの人から聞かされていたわけですが、
全てが終わった今、実感を持ってその言葉の意味を知る。

実家のそこここに、いや、全てに、
母の思いが染み付き、
見るもの聞くもの、全てが生前の母の姿を思い起こさせ、
その度に涙があふれて来て困る。
今はまだ兄家族もいて、実家の片付けものやら、
母の事務手続きやら、行なうべき事が多く、
それでもことあるごとにボロボロと寂しさがあふれてくるのに、
この先、家の中が静かになった時のことを思うと、
恐怖さえ感じる。

母の人生が終わり、
私のそれはまだ続く。
立派な生涯を送った、何でも積極的に取り組んだ、
母の人生を師に、私は、
きちんと人生と向かい合わなければいけないなと、
改めて思い始めている。

告別。

2009年4月24日18時、お通夜。
2009年4月25日12時、
母の遺志により、自宅にて母の葬儀がしめやかにとり行なわれました。
かつてクリーニング店を営んでいた狭い店舗で、
ご近所の人にもわかるように、ささやかにして欲しいと、
生前母が望んでいたのだが、
いざ実行してみると、葬儀会場としてはいかにも手狭すぎる空間。
参列客のほとんどは、道路脇に立ち並び、
足の悪い方、お年寄りあ、家の椅子をテント下に出して、
座ってもらった。
読経、焼香の後、弔電紹介の時には、
これも母の遺志で、SMAPの名曲「世界でひとつだけの花」を
BGMで流した。
喪主(兄)挨拶では、母が残した手紙を読み上げた。
参列は、親戚も含めて30人も来てくださればと思っていたら、
お通夜ではその倍、葬儀ではその3倍ほども参列していただきました。

こうした手作り感のある葬儀が故に、
派手でもなく、心温まる告別式だったという声が
終了後には多々聞こえてきました。

葬儀の最中にはそれほどでもなかったのに、
いよいよ終盤、斎条で骨あげをしての帰りの
マイクロバスの中で、またしても涙があふれ始めました。

感謝。

母が命を預け、
それを真正面から引き受けて下さった方々…
神戸市民病院・先端医療センターの藤田先生、片山先生、
六甲病院の阿保先生、吉村看護師、
神戸すこやかセンターの吉岡さん、桐下さん、ヘルパーのみなさん、
そして関本クリニックの関本先生、福田看護師、堀看護師、久米看護師、島田看護師、関本クリニックのみなさん、
近隣のみなさん、母の友人の方々、親戚のみなさん、
本当にありがとうございました。
「感謝」のひと言です。
平成21年4月24日 久実


お通夜 4月25日18時〜       自宅にて
告別式 4月26日12時〜13時(予定) 自宅にて

長いお別れ。

母が癌を告知され、さらに余命を聞かされた時から、
お別れへの序奏は始まっていました。
治る見込みのない肺癌だとわかり、
それでもなんとか数年でも生き延びる方法はないのかと思い、
いや、きっと、そうは言っても、結局は5年十年過ぎちゃったね、
なんてことになるんじゃないの?みたいな淡い希望を胸に、
抗癌剤の苦しさ、味覚障害の辛さ、やがては胸膜にはびこる
癌細胞がもたらす痛みと闘い続けて来た母。
私は、何もできず、ただ、見守るだけ。

長い長い月日をかけて、
次第に死へと向かっていく母親を見守りながら、
一緒にいることしか、他に何も出来ることもなく、
薬の管理や、
食事の準備、
手を握ること、
背中をさすること、
トイレに付き添う、
散歩に連れ出す、
終半になっては、痰を取ったり、
トイレの世話をしたり、
水を飲ませたり・・・
ただ単に日常生活のサポートしかできることもなく、
痛みを取ることも、苦しさを和らげることも、
医師にいわれるがままに遂行するのみで、
出来るなら変わってあげたい。
できるなら、今からでも楽しみを贈りたい。
そう思い続けて過ごして来たこの数ヶ月間。

母にとってはとても辛かったはず。
実際に弱音も何度も吐いた。
それでも、「私は幸せ者」そんな言葉を残して、
人生いピリオドを打ちました。

お母さん、お疲れさま。
お母さん、ありがとう。

さようなら、お母さん。

在宅看護26日目。
母は、昨日から引き続き、早い呼吸で、高熱のまま。
それでも、一晩を乗り切ってくれた。
午前10時半、H看護師が来てくれて、様子を見るなり、
「お兄さんに連絡は取れますか?」
え!?もう、そんなタイミングなの?
驚きながら、兄に連絡をし、母の耳元で、
もしかしたら最後になるかもしれない言葉をかけてもらいました。

H看護師は間もなく、次の在宅へ向かい、私と
連絡を取って帰宅したYちゃんと、
従姉妹のHさんと母の若い友人のAさんと4人で見守っていたら、
呼吸がさらに激しくなって来ました。
14時10分、下顎呼吸。下顎の動きとともに、頭全体が動く感じ。
それから長いことそれが続いて・・・

下顎呼吸が終わって、
15時46分、呼吸停止。
しばらくは名前を呼び続けたけれども、
唇の色を失い、爪の色も白くなって。
それでも、額や、背中はまだ温かく。。。

母は、76歳を前に、人生の幕を閉じました。
最後まで、立派に生きたと思います。

母は強し。

昨日は、呼吸が早く、高熱39度近くが出てるのに手足は冷たく、
体内のアンモニアがさらに増えている…
先生の見立てでは、昨夜がその日であることもあり得ると。
足を温め、身体をクーリングし、
口を湿らし、痰を取り、呼吸の様子を見ながら一晩を過ごした。
そして、夜が開けた。
母の呼吸は少し和らぎ、熱も38度5分に。
持ちこたえた母。
母は強い。
その生命力。
それでも眠り続けるモノ言わぬ母の傍らにいると、
やはりとても寂しくなってくる。

脈拍、血中酸素 測定不能